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序盤は、すごいスピリチュアルな妻だな、くらいの感じで見ていたが、ハムネットが生まれたあたりからどんどん引き込まれていった。
オスカー受賞のジェシー・バックリーはもちろん納得の演技だったが、ハムネット役のジャコビ・ジュープに見入ってしまった。ふっくらしてとても愛らしい顔立ち、そしてあの演技。バックリーやポール・メスカルがいたとて、彼の際立った魅力がなければ画竜点睛を欠いただろう。
シェイクスピアを著名な歴史上の人物として認知している私たちの視座から見れば、彼の家族の物語はいわばバックヤードの話だ。
だが、本作では劇作家シェイクスピアという彼の一面は物語の遠景となり、ラテン語教師ウィルと妻アグネスとの出会いから結婚、出産、息子の死といった家族の歴史がじっくりと描かれる。劇作家としての彼については終盤を除けば、家族と離れロンドンへ行った後いつの間にか成功していた、という程度にしか触れられない。
そのような形でじっくりと描かれる家族の幸福と悲劇の物語が、ラストでシェイクスピアの代表作「ハムレット」とまるで謎解きのように結びつく。
クライマックスのグローブ座で先王に扮したウィルが、ハムレットに語りかける。これは先王の霊が、彼の弟クローディアスにより毒液を用いて殺されたことを息子に告げる場面であり、ウィルの現実の状況とは全く違う。だが何故か、節々の言葉が子を失った父親としてのウィルの苦しみや悲しみ、絶望の吐露として胸に迫ってくる。
アグネスは当初、亡くなった我が子の名前を冠した舞台に激昂し、幕が開いてからも舞台に詰め寄ったりしたが、先王を演じるウィルを見て、初めて彼と深い悲しみを共有した。「Adieu, adieu! Hamlet, remember me.」という最後の台詞は、息子への永訣の言葉としてアグネスにも届いたに違いない。
グローブ座の舞台でハムレットを演じたのは、ハムネット役のジャコビの実の兄であるノア・ジュープだそうだ。そうとは知らずに観ていたが、やはりどこかハムネット少年の面影を感じた。アグネスが物語中の人物であるハムレットに息子の姿を見出していることを表現するためのキャスティングだろう。王子ハムレットの台詞がアグネスたち夫婦の中にある息子の記憶とシンクロする感覚がはっきりと伝わってきた。
剣の毒が回って息絶えようとするハムレットが差し出した手を、アグネスは思わず握る。すると周囲の観客たちも、誰からともなく手を差し出した。この時、「ハムレット」という悲劇を介してウィルとアグネスの悲しみは、少なくとも孤独なものではなくなったに違いない。それは、ウィルにしかできない癒しであり、悲しみの昇華だった。
当時を再現したグローブ座の立ち見席という構造も、この神秘的な場面に寄与している。
シェイクスピアにアグネスという年上の妻がいたこと、ハムネットという息子がいて11歳で亡くなったこと、息子の死後に「ハムレット」が発表されたことは史実のようだ。悲劇の主人公に亡き息子の名を与えた理由は実際には不明だが、原作者マギー・オファーレルの創造したストーリーには、実際こうだったに違いないと思いたくなる魅力と説得力がある。
名作の台詞が家族の物語で色付けされることにより違った角度から光を当てられ、新たな輝きを放つ。シェイクスピア作品のポテンシャルと「ハムネット」原作者の発想力にも唸らされた。