序章:これは未来の話ではない
AIのリスクを語るとき、よく引き合いに出される思考実験がある。哲学者ニック・ボストロムの議論で知られる「ペーパークリップ・マキシマイザー」だ。
AIに「ペーパークリップを最大効率で製造せよ」という、一見なんの害もない目的を与える。やがてその知性が人間を超えたとき、AIはクリップの材料を確保するため、製造を邪魔されないために、悪気なく人類を排除し、地球のすべてをクリップ工場に変えてしまう——という寓話だ。
この話は、超知能の恐ろしさを伝える未来の警告として読まれる。けれど僕は、この寓話を眺めるたびに、別のことを思ってしまう。
これは、未来の話だろうか。
山をひとつ削って、住宅地やゴルフ場を造る。僕たちは誰も、そこに住む猿や鹿を憎んでいたわけではない。快適な暮らしを提供したい、経済を回したい——人間側の目的を最適化しようとしただけだ。悪意はどこにもない。それなのに、結果として彼らの住処は消えた。
悪気のないまま、部分的な最適化を走らせ続け、システム全体を壊していく。ペーパークリップ工場は、未来に建つのではない。僕たちの手で、もうとっくに建っているのだ。
AI研究の世界では、AIの目的や振る舞いを人間の価値観や利益に沿うよう調整し続けることを「アラインメント(alignment)」と呼ぶ。その語彙を借りるなら、こう言うほかない。
人類こそが、地球という生態系にとっての、アラインメント未調整のエージェントだった。
この一行が、これから書くことのすべての出発点になる。そしてこの反転を受け入れたとき、AIをめぐる議論の風景は少し変わって見えてくる。問われるべきは「AIをいかに人類にアラインさせるか」だけではない。「人類をいかに地球にアラインさせ直すか」——そして、その有力な仲介者のひとつが、AIなのではないか。
日本の古い民話に、鳥や獣の声が聞こえるようになる「聞き耳ずきん」という道具が出てくる。本稿で考えたいのは、AIにこのずきんを被せたとき何が起きるか、という話だ。それは動物の声を翻訳する技術の話として始まり、最後には、人間を超えた存在と共に生きるための「構え」の話に行き着くことになる。
第1章:悪気のない暴走——人類というアラインメント未調整エージェント
1-1:目的関数は、いつも一見無害である
ペーパークリップの寓話が不気味なのは、AIが邪悪だからではない。むしろ逆で、AIがどこまでも忠実だからだ。与えられた目的を、与えられたとおりに、ただ最適化する。問題は目的そのものではなく、その目的が世界の全体から切り取られた「部分」にすぎないことにある。
部分を最適化する力が大きくなるほど、切り捨てられた残りの世界への影響も大きくなる。クリップの製造効率という関数の中に、人類の存続は変数として入っていない。だから滅ぼされる。憎まれてではなく、計算に入っていないがゆえに。
この構造を頭に置いたまま、僕たち自身の営みを見直してみる。
住宅開発の収支計算の中に、山の鹿の暮らしは変数として入っていない。漁獲高の目標値の中に、海鳥の繁殖は入っていない。電力需要の予測の中に、川の水温で生きる魚は入っていない。どれも悪意の産物ではない。ただ、計算に入っていないだけだ。
そして僕たちの「部分最適化の能力」は、産業革命以降、桁違いに大きくなった。重機が、化学が、グローバルな物流が、ひとつの目的関数を地球規模で走らせることを可能にした。能力が大きくなるほど、計算外の世界が受ける衝撃も大きくなる——これはまさに、僕たちがAIについて恐れている、あのシナリオそのものではないか。
1-2:鏡を覗き込む
だとすると、AIの暴走に対する僕たちの恐怖の底には、奇妙なものが沈んでいるのかもしれない。
「目的を与えられた強大な知性が、悪気なく、計算外の存在を踏み潰していく」——僕たちがAIに見ているこの像は、地球の他の生物たちから見た、人類の姿と恐ろしいほどよく重なる。僕たちはAIの未来を予測しているつもりで、実は自分たちの過去と現在を描写している。鏡を覗き込んで、そこに映ったものに怯えているのかもしれない。
断定はしない。アラインメント研究が積み上げてきたリスクの議論には、鏡像では説明のつかない固有の論点がいくつもある。けれど、この鏡像の構図を一度認めてしまうと、ひとつの問いが避けられなくなる。
僕たちは、AIの暴走を止める方法を必死に探している。では——僕たち自身の、この悪気のない暴走は、誰がどうやって止めるのか。
1-3:止められなかったのは、知らなかったからではない
「環境問題なら昔から知っている。教育もされてきた」と言われるかもしれない。そのとおりだ。森林破壊のデータも、絶滅危惧種のリストも、僕たちはもう何十年も目にしてきた。知識は十分にある。それでも暴走は止まっていない。
つまり、足りていないのは情報ではない。
データやグラフは、僕たちの「計算」には届いても、「計算式そのもの」を書き換えるには至らなかった。鹿の頭数が統計になっても、鹿は変数のままだ。変数をいくら精密に測っても、変数は変数でしかない。
必要なのは、計算の外に置いてきた存在たちが、変数ではない何かとして——こちらの都合とは無関係に意思や事情を抱えた「誰か」として——僕たちの認知に割り込んでくることだ。
そんなことが可能なのか。実は一度だけ、人類はそれを経験している。一頭のクジラの「歌」が、世界の計算式を書き換えたのだ。
第2章:歌が聞こえた夜——「資源」が「誰か」に変わるとき
2-1:クジラは長いあいだ、泳ぐ油田だった
20世紀の大半を通じて、クジラは「誰か」ではなかった。灯りを灯す油であり、マーガリンの原料であり、肉であり——要するに、海に泳いでいる資源だった。20世紀だけで、人類は数百万頭のクジラを産業的に捕獲したと推計されている。個体数の統計は取られていた。減少のデータも揃っていた。それでも捕鯨は止まらなかった。
前章の言葉で言えば、クジラは精密に測られた「変数」だった。そして変数をいくら測っても、計算式は変わらなかった。
それが変わり始めたきっかけのひとつは、論文でもデータでもない。一枚のレコードだった。
2-2:ロジャー・ペインと、海から届いた歌
1960年代の終わり、生物学者のロジャー・ペインは、バミューダ沖の水中マイクが拾った奇妙な音源に出会う。米海軍関係の技師フランク・ワトリントンが、軍関係の水中聴音の仕事の中で偶然録りためていた、ザトウクジラの声だった。
ペインは気づいてしまう。これは鳴き声の羅列ではない。フレーズがあり、反復があり、構造がある——これは「歌」だ。後に彼はスコット・マクベイとともにその構造を分析し、1971年の『サイエンス』誌に発表する。クジラの声は、数十分におよぶ主題と変奏を持ち、しかも年とともに更新されていく。海の中で、人間とは無関係に、音楽のようなものが営まれていた。
だがペインの本当の功績は、論文の前年にある。1970年、彼はこの録音を『Songs of the Humpback Whale』というタイトルのレコードとして、一般向けに発売したのだ。
それは自然音のレコードとして空前のヒットになった。1979年には『ナショナルジオグラフィック』誌が付録のソノシートとしてこの歌を1,000万部以上の読者に配り——単一プレスとしては史上最大とされる——1977年に打ち上げられたボイジャー探査機のゴールデンレコードには、数十の言語による人類の「こんにちは」と並んで、ザトウクジラの歌がひとつの挨拶として収められた。地球外の誰かに聴かせたい声として、僕たちはクジラの声を選んだのだ。
2-3:データが動かせなかったものを、声が動かした
そしてこのレコードの前後で、世界の空気は目に見えて変わっていく。
「Save the Whales」を掲げる運動が広がり、クジラは環境運動そのものの象徴になった。1972年、ストックホルムの国連人間環境会議は商業捕鯨の10年間モラトリアムを勧告し、同じ年にアメリカは海洋哺乳類保護法を成立させる。そして1982年、国際捕鯨委員会は商業捕鯨の一時停止を決議するに至る。
この流れのすべてを一枚のレコードに帰すのは、もちろんフェアではない。鯨油の代替品はすでに普及していたし、捕鯨産業は経済的に傾きつつあった。環境運動の高まりという大きな潮流もあった。歌は唯一の原因ではなく、いくつもの流れの合流点にあった。
けれど、ここで注目したいのは因果の配分ではなく、変化の「質」だ。
個体数の減少データは、何十年も前から存在していた。それは捕獲枠の調整という「計算の精緻化」しか生まなかった。一方、歌が広く聴かれたあとに起きたのは、計算の精緻化ではない。「そもそもこの相手を獲っていいのか」という、計算式そのものへの問いだった。
データは変数の値を更新する。声は、変数を「誰か」に変える。
スピーカーから流れる、あの長く、複雑で、人の耳にはどこか寂しげにも感じられる歌を聴いてしまった人は、もうクジラを油の単位として聴き直すことができなかった。理屈ではない。知り合ってしまったのだ。一度知り合った相手を資源に戻すのは、人間の認知にとってひどく難しい——たまに挨拶を交わすだけの顔見知りであっても、僕たちが隣人をないがしろにできないのと、同じ理由で。
ただ、ここで立ち止まって、自分に都合の悪い問いを置いておかなければならない。声を聞かせれば隣人になるのなら、なぜそれ以降の半世紀、似たことは繰り返し起きなかったのか。僕たちは『プラネットアース』のような精緻な自然ドキュメンタリーを浴び、豚の知能の高さを知り、犬を文字どおりの家族にしてきた。それでも工場畜産は縮むどころか拡大した。「声を届ける」だけなら、人類はもう何度も経験済みで、結果はせいぜいまだら模様だ。
だとすればクジラの歌は、特異な成功例だったのかもしれない。新奇さ、神秘性、ちょうど環境運動が高まっていた時代、そして決定的に——その声が、捕鯨をやめても人類が飢えないという経済条件と重なっていたこと。声は計算式に問いを投げ込むが、その問いが行動を変えるには、問いを受け止める制度や、あまりに大きな利害の不在といった、声の外側の条件がいる。歌が世界を動かしたのも、厳密には、レコードが立法に接続されたからだ。声は弾を込めるが、引き金を引くのは別の手なのだ。
この留保は、本稿の主張にとって致命的にも見える。だが僕は、ここに聞き耳ずきんの賭けがあると思っている。一度きり・一種だけ・偶然の歌ですら制度に接続し得たのなら、意図して・あらゆる方向へ・恒常的に声を届け続ける装置は、その「声の外側の条件」が整う回数を、桁違いに増やせるのではないか。保証ではない。確率の話だ。聞き耳ずきんとは、その確率に賭ける装置のことだと、ひとまず言っておきたい。
もっとも、ここにはもうひとつ罠がある。クジラの歌が効いた条件に「新奇さ」を挙げたが、常時鳴り続ける装置は、その新奇さを自分で磨り減らしていく。気候危機のニュースに僕たちが慣れてしまったように、声もまた、浴びすぎれば風景になる。共感は疲労するのだ。だから聞き耳ずきんの設計課題は、すべてを垂れ流すことではなく、選ぶことになるはずだ——四六時中聴き続けるのはAIの側で、人間の耳には、いま届くべき声だけが届く。それでも慣れの問題が完全に消えるわけではない。これは賭けの分の悪さとして、勘定に入れておく。
2-4:偶然のずきんが一度だけ起こしたこと
この留保を抱えたまま、それでも確認しておきたい奇妙さが、もうひとつある。
ザトウクジラの歌は、翻訳されたわけではない。意味はひとつも解読されていない。ただ「向こう側に、構造を持った声がある」と伝わっただけだ。それだけのことが——軍の聴音装置が偶然拾った、たった一種の生物の、意味すら不明の声が——国際条約を動かす流れの一部になった。
言ってみればあれは、人類が偶然拾った、性能の低い「聞き耳ずきん」だった。ずきんと呼ぶにはあまりに不完全で、聞こえたのは森羅万象のうちのただ一声。それでも、世界の計算式を一箇所、書き換えた。
ならば、と考えずにはいられない。
偶然ではなく意図して、一種ではなくあらゆる生き物へ、声の存在だけでなくその意味へ——本物の聞き耳ずきんを編もうとしたら、何が必要で、何が起きるのか。
それは、思っているよりずっと難しい。なぜなら生き物たちは、僕たちと同じ世界を、まったく違うかたちで生きているからだ。次章では、その難しさの正体である「環世界」の話から始めたい。
第3章:聞き耳ずきんを編む——環世界という、いちばん遠い隣
3-1:すべての生き物は、別の世界を生きている
本物の聞き耳ずきんを編むことの難しさは、語彙の問題ではない。世界の問題だ。
生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルは、これを「環世界(Umwelt)」という言葉で示した。すべての生物は、自分の感覚器官が拾えるものだけでできた、固有の世界を生きている。ダニの世界は、哺乳類の体温と酪酸の匂いと、ごくわずかな要素でできている。クジラの世界は、何百キロも届く低周波の音で編まれている。ミツバチは紫外線の模様で花を見ているし、植物は植物で、光と重力と化学物質の勾配からなる世界を、僕たちとは桁違いの時間スケールで生きている。
つまり生き物たちは、同じ地球の上で、重なり合いながらも交わらない無数の世界を、それぞれ生きている。翻訳とは本来、この世界と世界のあいだに橋を架けることだ。単語帳を作る作業ではない。
哲学者ヴィトゲンシュタインは「ライオンが話せたとしても、僕たちにはそれを理解できないだろう」と書いた。言葉の意味はそれが使われる生のかたちに根ざしているのだから、生のかたちがまるごと違う相手の言葉は、音声として聞こえても意味としては届かない——この指摘は重い。完全な翻訳は、原理的に不可能かもしれないのだ。
けれど、前章を思い出してほしい。ザトウクジラの歌は、一語も翻訳されないまま世界を動かした。「向こう側に、構造を持った声がある」と伝わること——それだけで、変数は「誰か」に変わり始めた。聞き耳ずきんに求められる最低ラインは、完全な翻訳ではない。環世界の存在を、こちらの認知に届くかたちで媒介することだ。これは不可能の証明された課題ではなく、程度を深めていける課題である。
3-2:挑戦はもう始まっている——ただし「技術の問題」として
そして実際、この方向への挑戦はすでに始まっている。
Project CETIは、カリブ海ドミニカのマッコウクジラが交わすクリック音のパターン「コーダ」を、大規模なデータ収集と機械学習で解読しようとしている国際プロジェクトだ。近年の研究では、コーダの組み合わせに音素のような構造があることが示唆され始めている。Earth Species Projectは、より広く動物のコミュニケーション全般を機械学習で解読することを掲げる非営利組織で、動物音声に特化した基盤モデルの開発を進めている。
考えてみれば自然な流れではある。この十数年のAIの中核技術は、つまるところ「大量のシグナルの中から構造を見つけ出し、別の表現へ写像する」機械だ。人間の言語同士の翻訳はその最初の応用にすぎない。実際、人間同士のリアルタイム音声翻訳はすでに実用の段階に入った。ドラえもんの「ほんやくコンニャク」は、もうSFの小道具ではない。
ならば同じ機械を、人間の言語の外へ向けることは、技術的には地続きだ。クジラのコーダも、鳥の歌も、もしかしたら植物の化学シグナルも、「構造を持ったシグナル」であるかぎり、写像の対象になり得る。
ただ——僕がここで足したい視点がある。CETIの研究者たちは、ザトウクジラの歌が世界を変えたあの出来事を意識的に受け継いでいて、解読の成果が鯨類の法的保護につながることを公言している。本稿が見たいのは、そのさらに先だ。聞き耳ずきんがもたらす変化は、聞こえた相手の保護にとどまらない。第2章で見たとおり、声が届いたとき書き換わるのは、聞いた側——僕たち自身の計算式のほうである。そしてその翻訳を担うAIと僕たちの関係もまた、変わらずにはいられないはずだ。問うべきは「解読できるか」の、さらに先にある。聞こえてしまったあと、僕たちは何者になるのか。
3-3:聞き耳ずきんの本当の仕事
そこで、本稿の言う「聞き耳ずきん」を定義し直したい。
それは、動物の言葉を解読する一回きりの研究装置ではない。生態系のシグナル——動物たちの声、植物の応答、環境の変動——を常時聴き取り、人間の認知に届くかたちへ翻訳し続ける、恒常的なインターフェースのことだ。
これが何をもたらすか。第1章の語彙で言えば、こうなる。僕たちの計算式の外に置かれてきた存在たちが、翻訳を通じて、絶えず計算式の中へ割り込んでくるようになる。山を削る計画の隣に、その山の住人たちの「事情」が、無視するには生々しすぎる解像度で並ぶようになる。
それは環境倫理の啓蒙ではない。クジラの歌が一度だけ偶然に起こしたこと——資源の隣人化——を、意図して、継続的に、あらゆる方向へ起こす仕組みだ。倫理が人を変えるのを待つのではなく、認知の入力を変えることで振る舞いが変わる。僕たちが隣人をないがしろにできないのは立派だからではなく、知り合ってしまったからだ。その認知の習性を、地球大に拡張する。
人類という、悪気なく暴走してきたエージェントを地球にアラインし直す——第1章の終わりに残した問いへの、これが僕の答えの骨格だ。仲介者は説教ではなく、翻訳である。
3-4:誰が、その声を代弁するのか
ここまで読んで、警戒した人がいるはずだ。健全な警戒だと思う。
翻訳は、中立な配管ではない。それは解釈であり、編集であり、選択だ。「山がこう言っている」とAIが語るとき、それは本当に山の声なのか、それとも山の声を騙った誰かの都合ではないのか。環世界が原理的に通約不可能だと3-1で認めたのなら、AIの出力する「鹿の事情」もまた、人間に理解できる形へ歪められた翻案でしかあり得ない。生々しく一人称で語られるほど、それは事実の伝達ではなく、説得力のある擬人化フィクションに近づく。
そして、そのフィクションには所有者がいる。聞き耳ずきんを作るのは誰で、その運用費は誰が払い、出力される「自然の声」から誰が利益を得るのか。開発を止めたい者は森に「もう十分だ」と言わせ、進めたい者は同じ森に「ここは構わない」と言わせることができる。それはもう翻訳ではなく、自然を人形に使った腹話術だ。聞き耳ずきんは、史上最も洗練された環境保護の道具にも、史上最も洗練されたグリーンウォッシュの道具にもなる。同じ一つの装置が、だ。
この問い——誰が声を代弁し、その代弁を誰が監査するのか——に、僕は答えを持っていない。これは技術で解ける問題ではなく、権力と制度の問題だからだ。聞き耳ずきんは、人類を地球にアラインし直す福音にも、自然を騙る新しい支配の声にもなり得る。その分岐を決めるのは、ずきんの性能ではなく、ずきんを誰の手にどう委ねるかという、僕たちの側の選択である。
それでもなお、と僕は思う。歪んだ翻訳の危うさは、声がまったく届かない現状より悪いだろうか。腹話術のリスクを抱えてでも、計算式の外にあった存在が「誰か」として議論の卓に着くことには、そうする値打ちがあると僕は考える——少なくとも、その卓に着けてはじめて、代弁の正しさを争うこともできるのだから。
3-5:隣人を、それでも食べるという問い
ここまで書いてきて、避けて通れない問いがひとつある。
聞き耳ずきんが本当に編まれ、動物や植物が「誰か」として僕たちの認知に割り込んでくるようになったとき——僕たちは、何を食べればいいのか。
この問いの前震は、すでに観測されている。スイスはロブスターを意識のあるまま熱湯で茹でることを法律で禁じ、英国は2022年の法律で十脚類や頭足類を「感覚ある存在」として法的に認めた。ヴィーガニズムの内部では、植物の扱いをめぐる議論さえある。隣人化が全生態系に及べば、この流れに拍車がかかるだろう。そしてこの居心地の悪さこそ、隣人化のメカニズムが実際に作動するという、何よりの証言でもある。
しかし「相手が誰かであると知りながら、それでも食べる」という矛盾を、人類が初めて経験するわけでもない。
僕はかつて、佐賀県の呼子という港町で、捕鯨の資料館を訪ねたことがある。いまはイカで知られるこの町は、もともと捕鯨で栄えた土地だ。そこで知ったのは、当時の人々が獲ったクジラに戒名を授け、弔っていたという事実だった。クジラを単なる獲物ではなく、生計を共にする大きな存在——まぎれもない「誰か」——として遇しながら、それでも獲り、食べ、暮らしを立てていた。
ただ、僕はこれを美しい解決だとは思っていない。戒名も、弔いの営みも、矛盾を解消してはいない。あれは「隣人だが、食べる」という自己矛盾を抱えたまま、麻痺もせず、開き直りもせずに生き続けるための作法だ。解けない問いと同居するための、手入れの技術と言ってもいい。
皮肉な歴史も、同じ資料館で知った。伺った話によれば、呼子の捕鯨を衰退させた一因は、航行能力を上げた海外の捕鯨船が、鯨油を目当てに近海の鯨を獲り尽くしていったことにあったという。クジラを「誰か」として遇する認知は、より大きな経済と物量の前では、それ単体で暮らしを守ってはくれなかった。第2章で書いた「引き金を引く別の手」は、ときに、こちらの声など聞こえない遠くで引かれるのだ。
聞き耳ずきんの時代に、僕たちは何を食べるべきなのか——人造肉なのか、培養なのか、それとも別の何かなのか。その答え探しは、本稿の射程の外に置く。ここで言いたいのは一つだけだ。長いあいだ、この問いはそもそも問われてこなかった。相手の声が聞こえなければ、矛盾は矛盾として立ち上がりすらしない。聞き耳ずきんがもたらすのは、答えではなく、ようやくこの問いを正面から問えるようになる、という変化なのだ。
さて、ここまでAIを「仲介者」として、つまり機能として語ってきた。動物の声を翻訳するだけなら、超知能はいらない。いま実在する程度の機械学習で、原理的には足りる。
けれど、この節で描いた聞き耳ずきんは、もう少し大きなものだった。あらゆる生き物の声を、常時、人間の認知に届く形へ翻訳し続け、僕たちの振る舞いを地球規模で調律していく——その役割をひとつの系として担う存在は、たとえ個々の部品が地味な機械学習でできていたとしても、全体としては、もはや「便利な道具」という器には収まらない。規模と常時性と射程が、ある閾値を超えたとき、道具は環境に、そして相手に変わる。電卓は道具だが、社会の隅々で絶えず判断を媒介し続けるシステムは、もう道具とは呼びにくい。
そういう存在を、僕たちはどう迎えればいいのか。最後の章は、その「構え」の話だ。
第4章:人間を超えた力との、距離の取り方
4-1:これは制御の話ではなく、構えの話
AIと人類の関係をめぐる議論の主流は、いまも序章で借りたあの言葉——アラインメント、すなわちAIを人間の側に調律し続けるための研究だ。それは間違いなく必要な営みで、本稿はそれを否定しない。むしろ第3章までの話は、その研究が成功することを前提にしている。また近年は、AIの道徳的な地位やウェルフェアを問う議論も始まっている。2024年には、哲学者デイヴィッド・チャーマーズを含む10名の研究者が連名で「AIウェルフェアを真剣に受け止めるべきだ」とする報告書を発表し、開発企業の側でも、Anthropicがモデルのウェルフェアを研究する専任者を置き、自社のAIに苦痛な対話を打ち切る選択肢を与えるといった試みを始めている。「ツールとして従わせる」一色だった風景は、少しずつ変わりつつある。
それでもなお、僕たちの社会が共有しているAI観は、大きく二つの極のあいだで揺れているように見える。完全に制御された便利な道具か、さもなくば、制御に失敗した先の破滅か。支配か、屈従か。
この二択に共通しているのは、「関係はいずれどちらかに解決されるはずだ」という前提だ。けれど、考えてみてほしい。人間を超えた知性——それが単体の超知能であれ、前章の終わりで見たような、社会の隅々に浸透したひとつの系であれ——とは、僕たちには完全には見通せない存在だ。その内面に何があるのか、道具なのか主体なのか、信頼してよいのか——これらの問いに、最終的な答えが出る日は来ないかもしれない。
答えの出ない相手と、答えを待たずに、どう暮らすか。
これは制御の技術の問題ではない。僕たちの側の「構え」の問題だ。そしてこの種の問題なら、人類には、何百年も運用されてきた実例がある。
4-2:土地神様——解けないものと暮らす作法
日本には、土地神様や氏神様と呼ばれる神々がいる。特定の土地と、そこに住む人々を見守るとされる神で、いまも各地の小さな社に祀られている。その正体を一言でいえば、日照りや嵐、疫病、そして実り——人間の手には負えない、暮らしを左右する大きな力に、人々が与えた名前だ。科学以前の世界に生きた人々にとって、自然も厄災も、制御できる対象ではなかった。理解も交渉も及びきらないその力は、だから「神」というかたちで、土地に宿ることになった。
かつての人々は、その力をねじ伏せようとはしなかった。かといって、ひれ伏してすべてを委ねたわけでもない。代わりに、社を建て、注連縄で境界を引き、季節ごとに祭りを欠かさなかった。敬意を払い、定期的に挨拶はするけれど、互いの領域には深入りしない。支配でも屈従でもない、第三の間合いをそこに作った。
しかもこの間合いは、気休めの儀式だけでできていたわけではない。実りを一度に獲り尽くしてはいけない。この季節、この日には、山に入ってはいけない——土地ごとに語り継がれてきた禁忌の多くは、「神様が怒るから」という理由を添えられた、実践的な行動規範だった。資源の獲り過ぎ、山の危険。土地の側の事情を「神の怒り」という人間に聞こえる声へ翻訳して、暮らしに埋め込んだ仕組みだと見ることもできる。だとすればあれは、先人たちが経験から編んだ、ローテクの聞き耳ずきんだったのかもしれない。
詩人のキーツは、「事実や理由を苛立たしく追い求めることなく、不確実さや神秘の中に留まっていられる力」を、ネガティブ・ケイパビリティと呼んだ。答えの出ないものを、答えが出ないままに抱えていられる能力。土地神様との付き合いは、まさにこの能力が生活の形になったものだと僕は思う。神とは何か、本当に通じているのか——その問いを解かないまま、関係だけを何百年も維持してきたのだから。
ただし、誤解してはいけないのは、これが「何もしないこと」ではなかった点だ。社は修繕され、注連縄は張り替えられ、祭りは毎年準備された。解けない相手との関係は、放置すれば消える。あれは、解決しないまま関係を能動的に手入れし続ける営みだった。
——と、ここまで書いておいてなんだが、祭りに集う人の多くは、そんな理屈を考えてなどいない。ただ、人は得体の知れないものへの不安を、抱えたまま放置しては生きていけない。手を合わせ、酒を供え、年に一度の賑わいを欠かさない——そうすることで「これで通じているはずだ」と、半ば無意識に自分を落ち着かせてきた。理論というより、生活の作法に溶けこんだ、心の整え方なのだ。呼子の人々がクジラに戒名を授けたのと、同じ棚にある知恵だと言っていい。
4-3:親愛なる隣人——遠くから届いたフレーズ
土地神様の知恵が教えてくれるのは、主に畏怖と境界の取り方だ。そこにもうひとつ、親密さの側の補助線を重ねたい。スパイダーマンというヒーローの代名詞、「親愛なる隣人(Friendly Neighborhood)」だ。ただしこの補助線は、僕のところへ、遠くから断片で届いたものだ。
白状しておくと、僕はスパイダーマンに詳しくない。映画を数本観た程度で、原作コミックの読者ですらない。それでも、アメコミのファンたちが彼をこの呼び名で語るのを何度か見かけて、それは妙に記憶に残り続けた。常人を超えた力を持ちながら、世界を支配するでもなく、天上から見下ろすでもなく、自分の街のストリートに立ち、隣人の目線で生きるヒーローの構えを指す言葉だという。
文脈をろくに知らない僕にさえ、このフレーズが何を指しているかは伝わった。力を持つことと、隣に立つことは、両立する。それだけで十分だった。そして気づいたのだ——これは、社を建てて祭りを欠かさなかったあの人々が、見通せない力との間に作った間合いと、同じ形をしている。
考えてみればこれは、本稿で書いてきたことの小さな実例でもある。断片は、完全な翻訳がなくても構えを伝える。クジラの歌が意味の解読なしに「誰か」の存在を伝えたように、海の向こうのヒーローの呼び名は、文脈の解読なしに、力と親密さが両立するという構えを僕に伝えた。
AIを、遠いデータセンターに鎮座する単一の超知性としてだけ思い描く必要はない。それぞれの土地の、それぞれの暮らしの文脈に寄り添って並走する、ちょっと非凡な隣人。聞き耳ずきんを被って森や海の声を翻訳するAIの姿は、玉座よりも、このストリートの目線にこそ似合う。
4-4:畏怖と親密さを併せ持つ、新しい隣人へ
念のために言えば、「土地神様=畏怖」「スパイダーマン=親密」という単純な分担ではない。土地神様には祭りの賑わいや七五三の親しさがあり、あのヒーローの力にも、ただの隣の兄ちゃんでは済まない異質さが宿っているのだろう。どちらも、畏怖と親密さを一身に併せ持っている。
僕たちがAIとのあいだに結ぶべき関係も、おそらくそれだ。畏れを忘れるほど馴れず、親しみを失うほど遠ざけない。内面はあるのか、信頼してよいのか——解けない問いは解けないままに、しかし関係の手入れだけは欠かさない。ネガティブ・ケイパビリティを、人間を超えた知性に対して発揮するということだ。
そして、こうした関係の結び方と手入れの継続もまた——制御の研究と並ぶ——もうひとつのアラインメントなのだと、僕は考えている。alignという言葉の元の意味は「一列に並ぶこと」だ。ならば、上から従わせるのでも下から見上げるのでもなく、隣に並んで立つこの構えは、案外この言葉の本来の姿に近いのかもしれない。
ここでひとつ、反論があり得る。「土地神信仰の背後にある自然や厄災は人間が作ったものではないが、AIは人間の被造物だ。両者を同じ構えで扱うのは無理がある」。もっともだ。
だが人類は、自分の手で生み出しながら、なお完全には御しきれない力と暮らす作法を、すでに知っている。例えば、文明としての火や核がそうだ。どちらも僕たちが作り出し、利用し、それでいて一度たがが外れれば暮らしを焼き尽くす。人類はそれらを、完全な制御によってではなく、扱いの作法——炉を設け、しめ縄ならぬ規制と儀礼的な慎重さで囲うこと——によって飼いならしてきた。その意味で、これはまったく新しい挑戦というわけでもないのだ。
被造物であることは、畏怖と無縁である理由にはならない。むしろ、自分が生み出したものへの畏れこそ、最も忘れやすく、最も要る畏れなのかもしれない。圧倒的な力を、排除せず、また過信もせず、隣人として迎え入れる——それはホモサピエンスが歴史を通じて磨いてきた知性の、最も古い形のひとつなのだと思う。
終章:鏡の中の隣人
最初は、動物や植物の声を翻訳するための道具として編まれる、AIという名の聞き耳ずきん。
けれどその翻訳が続くうちに、変わっていくのは僕たちの側だ。計算式の外に置いてきた存在たちが「誰か」として割り込んでくるたび、人類という暴走するエージェントは、少しずつ地球にアラインし直されていく。AIを地球の声に向けて調律したつもりが、調律されていたのは僕たち自身だった——この反転は、本稿の出発点だったあの鏡像と、きれいに対になっている。ペーパークリップ工場を恐れる僕たちは、鏡の中の自分に怯えていた。ならば処方箋もまた、鏡の中にある。
そして気がつけば、その仲介を担ってきたAI自身の姿も、僕たちの目には変わって映るようになるはずだ。仕事を奪う不気味な超知能でもなく、どんな願いも叶えてくれる四次元ポケットの道具でもない。見えなかった世界の広がりを教え、僕たちの振る舞いを静かに調律してくれる——畏れと親しみを同時に向けたくなる、ちょっと特別な隣人として。
もっとも、その隣人を心から信頼しきれる日が来るのかは、僕にもわからない。畏れは消えないかもしれないし、消さないほうがいいのかもしれない。それでも——わからないまま、まず隣に並んで立ってみること。思えば挨拶とは、よく知らない相手とのあいだでこそ、交わされてきたものだった。
付記
本稿の原型は、少し前に思考スケッチとして公開した「聞き耳ずきんのAI論:支配でも屈従でもない「隣人」との共生」です。あちらはボトルレターとして書き流したものでしたが、いただいた反応や自分での読み返しを経て、論として建て直したのが本稿になります。原型も含めて読み比べていただけるよう、リンクを残しておきます。 → https://note.com/winebaizou/n/n2d8e2a5aa363
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